uraurann的野球ツッコムブログ

20年以上野球を観てきて個人的な疑問と勝手な解釈をつらつらと書いているブログです。

息子に娘にさせたいか?

 自分に子供が生まれたらどういった風に育っていってもらいたいか?というのは親の

立場なら考えるところだと思う、まだ憎たらしさの欠片もないような赤ん坊の時に希望を込めて名前をつける実際に両親が望むようにはいかないのが現実だったりするけど、

小さい子供は勿論のこと力もないし知識もないので親に頼らざるをえない親のサポートがある程度ないと何もできない学生時代に勉強ができる子やスポーツができる子を傍目から見て自分自身と照らし合わせて歯がゆい思いをした、本人の努力やもって生まれた

資質のようなもの遺伝性のようなものもあるだろうが、両親に上手いこと舵を切ってもらえたんだなぁと気づいたと同時に自分が大人になってから舵を上手いこと切ってくれなかった自分の親に恨みや憎しみが湧いてきてしまいました。

 自分は人の親になったことがないからなんとも偉そうなことを述べられはしないけど

人を育てたことはないけど育てられた立場には置かれたことはあるので傍目から見てても働きながら人を教育していくプロセスは思っているよりも大変だろうなぁと感じざるをえない、仮に自分が親になったとしても四苦八苦するだろうなぁとこんな強烈でしんどいことも多い世の中に産み落として本当に幸せか?なんて考えてしまう。なぜなら僕

自身がそう思えてないからであるからです。

 それはさておき、このブログのテーマ「野球」をやらすにも最初の取っ掛かりは親からの働きかけがほとんどだと思う小学生の頃に少年野球をやらせるにあたるにしても、

子供はそういうものがあるとすら知らないだろうから入会の手続き、月謝、道具、送り迎いなど親が快く半ばそれが趣味の一環のような子供の成長を楽しみにするぐらいの感じなら愛されて育っている感じが子供の方からしてもするのではないかな?この前通りすがりの公園のグランドでキャッチボールしている親子を見たけど、父親がキャッチボールの受け方が投げ方がなっていないということでかなり大きく怒声をあげていた、

子供は半べそ状態で端から見てて下手したらイップスになっちゃうんじゃないかと思う

くらいの光景だった、憶測だけどあれは息子に野球を楽しんで上手くなってもらいたいと思う気持ち以上に自分のエゴが混ざっているんなぁとそんな気がしてならなかった。

 そう考えると無理にさせてはいけない子供自らがヤル気を自発的に見せないとある意味極端に言うと虐待の類になりかねない子供の方からも野球がやりたいアピールがないと応援しがいがない、野球に限らずスポーツをやることによって体や精神面も鍛えられるし自信もついたりするだろう大人になってそういう目に見えないものが役に立つことを知っているからこそ親は子供に愛情の裏返しじゃないけど厳しく当たってしまうのかもしれない、今プロ野球で活躍している選手や甲子園にレギュラークラスで出ていた子たちも初めから上手かったわけじゃない身体の大きさや強さなどは両親の遺伝によるところも多いと思うし飲み込みの速さが才能ならそれもあるだろうどれだけ自分の例えば遊ぶ時間などを削って練習に充ててきたかによってやっぱりボール捌きや打球の伸び一つとっても一日一日じゃ分からないことも長い目で見たら大きな差になってくる。

 大人になって子供の頃の思い出などが野球しかないっていうのもある意味寂しいかわいそうな感じもしてしまう頭の柔らかい色んなことを吸収して良いも悪いも成長してしまう多感な時期に野球オンリーはどうなんだろうか?息子に限らず最近は女子野球の方もフューチャされてきて女の子が生まれても野球をやらせてみる親もいる。プロになって活躍することになったり野球をやっていたその頑張りや成果が企業面接で役に立ったら御の字苦労した甲斐もあったと合点がいくがそうじゃない人もいるだろう、それでも

休みが潰れたりクラスの友達と遊べなかったりしたことよりもスポーツをやって良かったとイイ思い出になったと言ってもらえる面と言ってくれなくても本人が心の中でそう

思ってくれれば息子や娘が生まれて半ば強引に舵を切ったとしても促した方からすれば

そうして良かったと多少なりとも選んでしまった選択肢の疑問や後悔や多少なりともあるかも知れない罪悪感も浮かばれるだろうし気持ちもいくらか晴れるだろう。

 筆者自身も遠い淡い記憶を辿ると母親がサッカーチームに入れて練習させようとしたり地域のソフトボールチームがあって誘いが何回かあったにも関わらず色んな理由を自分につけて拒んだり中学時代も内心モテたいやりたい願望はあったのに小学生時代仲の

良かったメンツが入ったり自分に自信がなかったから流されるように卓球部に入ったり

高校時代は帰宅部だったりしてしまった両親のサポートの無さを嘆いても自分の運の無さを恨んでも結局その時その時の自分の選択の積み重ね勇気の積み重ねが今の自分。夏の甲子園をテレビで見てると野球やれば良かったなぁ~と心底思ってしまう。しかしそう思って過去を見ても戻ることはできないやり直すことはできないからどこかで現状を

仕方ない自分が悪いということに終着点を設けないと負のループにはまり込む僕自身もはまり込んでなかなか出れなかった。不遇は自分で解決していくしかない子供は親を選べないと同時に親も子供を選べない、野球などをやらせても発破をかけても応援しても

ヤル気がないなら意味がない本人にも資質がある他の分野に才能が眠っているかもしれない息子または娘にさせたいか?と問われたら一応やらせてみる応援してみる発破もかけてみたりするけど、それでも頑張れないと頑張れそうもないヤル気がないなと判断したら別の方向にシフトチェンジしてみるのも一つの手だ。その見極めやどういう風に後ろからサポートすれば本人がより良い人生を生きられるか?はわからない答えなどもしかして無いのかもしれない。だからこそ難しい家族間や親子間での日々のコミニケーションの大切さが浮き彫りになってくる。